鷲野谷の歴史散策

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会

 手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会では、「鷲野谷の歴史散策」を春のイベントとして行いました。以下、その内容を報告します。

 

【今回の見学会】

  手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会主催の手賀沼沿岸、「鷲野谷の歴史散策」は、3月4日(日)に行われました。
 当日は、天候にも恵まれ、4月の陽気ということで、歩いていると汗ばんでくるほど。
 鷲野谷は、中世の歴史的景観が残った地域。鎌倉時代か、室町時代くらいの集落の様子も、なんとなく想像できそうな場所でした。
 妙見曲輪を中心とした村落の様子、北の内古墳と「古墳之址碑」、医王寺、香取神社など、見所がいくつかまとまってあり、一日快適に回ることができました。  これも、いろいろ準備をしてくれた方達のおかげです。

<集合場所は手賀の杜プラザのバス停>
さあ出発




【中世の面影を残す鷲野谷】

妙見曲輪を中心にした集落

 妙見曲輪は、戦国期の鷲野谷城(後世の土取により主郭部分は消滅)に先駆けて、中世城館として存在したと思われるもので、今も星神社(鷲野谷青年館)の周辺を中心に所々に土塁が存在します。  戦国時代には当地域は高城氏の勢力範囲にありましたが、その高城氏が小田原北条氏と運命をともにして没落すると、元々高城氏についていた当地の土豪染谷氏が帰農したのが、  ここの旧家染谷家の先祖だといいます。
今回、手賀の杜プラザのバス停より、岩井地区を通って、「宮前」、「元屋敷」という字名の場所をへて、鷲野谷の中心である星神社に向かいました。

宮前元屋敷 星神社

古墳を研究した先人の足跡

 北の内古墳は鷲野谷集落の東側にあります。その古墳上にある「古墳之址碑」は、その染谷家の江戸時代から明治時代にかけての当主二代 にわたり関心をもち、東京帝大の教授坪井正五郎にも依頼して調査した結果の記念碑です。

古墳遠景 「古墳之址碑」

医王寺と染谷家

   浄土宗の医王寺では、偶然出てこられた若いお坊さんから、いろいろ聞いてしまいましたが、絵馬と寅年しか公開されない薬師如来像の話が印象に残りました。この寺も、かつては  古墳の近くにあり、戦乱などで荒れたのが再興されたもの。薬師堂は延享元年(1744)に再建されたものですが、これは戦後棟札の発見により明らかになりました。  また、この寺は旧家染谷家と深い関係がありました。その染谷家は大きな長屋門と曲り屋が特徴で、天正19年(1591)発給と思われる高城氏からの書状の宛名になっている染谷二郎右衛門尉  は染谷家の先祖であり、戦国期には土豪であった家柄です。
 ほかに別の民家で、大きな庇が家屋の外に張り出したマテ屋という作りがある(柳戸など手賀沼沿岸に時々見かける造作ですが)のを見かけました。

医王寺の堂 医王寺

香取神社

 次に回った、香取神社はもとは岩井と共同の神社として岩井地区と鷲野谷の境界の場所にあったそうですが、江戸時代は元禄年間に事情があり、岩井、箕輪、鷲野谷の三ヶ村の  鎮守として、それぞれ建立され、鷲野谷の香取神社としては当地に建てられたもの。
 彫刻が立派で、昇り龍、降り龍など、小さな社殿全面に彫刻が施されていましたが、女性陣から「可愛い」と声のあがったのが、波に兎の彫刻。
 しかし、波に兎という図柄はよく見ますが、陸上の動物である兎がなぜ波の上にいるのか、よく分かりませんでした。
 後日、疑問に思っていたHP製作者のもとに、近隣の研究者の方から連絡があり、琵琶湖の竹生島の伝説から来た図柄であることが判明しました。

香取神社の昇り龍 波に兎

 

星神社へ戻ってお疲れ様

 良い陽気に恵まれ、適度に運動もしたので快適な一日でした。写真は、医王寺で見せていただいた鎮西八郎の絵馬。

 
医王寺にあった鎮西八郎の絵馬

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