北小金の歴史散策(午後)

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会

 手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会では、「北小金の歴史散策」を新春のイベントとして行いましたが、その午後の部です。

 

 小金城跡金杉口を後にした私たちは、昼休みを小金北市民センターでとって、午後からは本土寺と東漸寺をまわりました。

 

 <昼の休憩をとった小金北市民センター近くにある、聖徳太子講の石碑>

聖徳太子講




【本土寺】

中世の佇まいを残す本土寺

 本土寺は日蓮宗の古刹。文永6年(1269年)に、日蓮上人に帰依した蔭山土佐守が狩野の松原に法華堂をたてましたが、 建治3年(1277年)に当地の領主で、やはり日蓮宗の大檀越の曽谷教信とはかって、この地に法華堂を移し、日蓮上人の高弟、日朗上人を招きました。
これが、本土寺のはじまりで、池上本門寺、鎌倉比企ヶ谷の妙本寺とともに、「朗門の三長三本の本山」の一つになっています。

仁王門 本堂の前で

本土寺にある句碑など

 本土寺には、国重要文化財の日蓮筆の「諸人御返事」「大学三郎御書」や県・市の有形文化財の「富城殿御返事」「本土寺過去帳」などの古文書が残っています。
 あまり知られていませんが、江戸時代に小金の文化程度の高さを反映して俳句がはやり、本土寺にも句碑があります。それは本堂下の「翁」の碑と像師堂横の句碑です。

 この「翁」とは松尾芭蕉のこと。この句碑は、江戸時代の文化元年(1804年)に行われた芭蕉忌を期して建立されたものです。 碑面には「御命講や油のような酒五升」という句や、芭蕉忌にちなんだ「芭蕉忌に先づつつがなし菊の花」という句が刻まれています。

 他に、徳川家康の側室で、家康の五男、武田信吉を産んだ秋山夫人(於都摩の方)の墓があります。秋山夫人は、甲斐の武田家家臣の秋山家の出身。  徳川家康が武田の名跡が絶えるのを惜しみ、信吉に武田家を継がせたため、家康の子でありながら、信吉は武田を名乗り、小金三万石の領主となりました。  しかし、於都摩は天正19年(1591年)に24歳で病没。残された子の武田信吉は病弱で、21歳で病没してしまいました。

「翁」の碑 今日庵句碑

【東漸寺】

小金宿の中心にある東漸寺

   東漸寺は文明13年(1481年)に、増上寺の音誉上人の弟子経誉愚底上人によって、根木内に開かれたのがはじまりといいます。この経誉愚底上人は、鷲野谷の医王寺薬師堂を再建した僧。  戦国時代、第五世行誉吟公上人のときに当地の高城氏とのつながりを深め、東漸寺は小金に移転しました。その寺域は広大で、小金宿の中心にあって小金城の出城としての機能をもっていたといいます。 また、浄土宗の関東十八壇林の一つでありました。高城胤吉の三男胤知は出家して東漸寺に入り、第七世照誉了学上人となりましたが、のちに芝増上寺の住持となり、徳川二代将軍秀忠の葬儀の大導師をつとめました。
 東漸寺は、徳川家康から朱印高百石を与えられるなど、徳川家によって庇護されました。

東漸寺の仁王門 東漸寺の本堂

竹内廉之助、啓次郎の碑など

 東漸寺の本堂の向かって左側、幕末の激動の時期に水戸天狗党に入った竹内廉之助、啓次郎の碑があります。
 竹内兄弟は小金の郷士出身。芳野金陵の門下で、水戸天狗党に入りましたが、元治元年(1864年)9月、弟竹内啓次郎は戦死。蟄居を命じられた兄竹内廉之助は  慶應3年(1867年)赤報隊に入りましたが、赤報隊がニセ官軍とされ、信州小諸藩の兵と戦って戦死しました。

 また以前、中村勝先生の小金牧の開拓に関する講演で出てきた、赤報隊の金原忠蔵とは、この竹内廉之助の変名です。

 なお、東漸寺の本堂脇には亀松という松がありますが、そのほか槙の木や枝垂れ桜などの古そうな木が境内には多く、「この木何の木?」談義となりました。

本堂脇の亀松 槙の木

東漸寺で解散

 東漸寺は駅からも近いのですが、境内は静かで落ち着いた感じでした。予定していた行程をすべてまわり、東漸寺の観音堂前で、解散となりました。 朝9時半から午後3時まで、休憩時間を除いてずっと歩いていましたが、心地よい疲れが残りました。

 
観音堂

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