手賀の歴史散歩

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会

 手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会では、「手賀の歴史散歩」を秋のイベントとして行いました。以下、その内容を報告します。

【今回の見学会】

 手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会主催の「手賀の歴史散歩」は、11月27日(土)に行われました。
 
 手賀は、手賀沼南岸の手賀城という手賀原氏の中世城郭があった地域で、近くには北ノ作古墳や興福院という古刹もあり、明治時代にキリスト教(ロシア正教)が布教された証しとして旧ハリストス正教会もあります。
 今回、歴楽講座の野外編という位置付けでもあり、小春日和のなか、秋の紅葉も楽しみながらめぐることができました。
かしわコミュニティバス、あるいは東武バスに乗って手賀バス停に集合し、ほぼ全域が手賀城跡という台地を進み、まずは興福院へ。 

興福院のいちょう 片山の谷津




【手賀城跡と周辺】

手賀沼沿岸随一の規模の中世城郭だった手賀城

 手賀城は、戦国期に手賀原氏が築城したと言われており、手賀原氏は手賀地域はもちろん手賀沼の対岸である我孫子の一部や白井市の名内なども支配していたと考えれ、手賀城はその拠点となったものです。  実は手賀バス停以北の台地全域が手賀城跡で、今は本丸は畑、その他の多くが住宅地になっていて、土地の様子が改変されていますが、一部の土塁などの遺構は住宅地のなかにも残っており、他に腰郭なども現存しています。
 手賀城の北側の崖下は低地で、かつては手賀沼がその近くまで迫っていたのですが、北東側に低地が入江状に台地の奥まで入り込んでいる地形があり、「舟戸」という地名からも軍船の繋留場所と考えられています。 現在、興福院のある場所は、城の二の丸跡と言われています。興味深いのは、その興福院に隣接するお宅の屋号が「陣屋」ということ。それ以外にも、「馬場」という地名、「松葉」や「松葉坂」という屋号や地名があり、城との関連が注目されます。 なお、手賀城は小田原北条氏についた原氏の居城であったために、小田原の役の際に、豊臣秀吉配下の浅野勢によって攻められ落城したといわれ、その跡に寺台(東側の台地)にあった興福院が移されたとのことです。

本丸跡で 土塁

平安時代創建という古刹興福院

 手賀城跡にある興福院は、元は寺台にあり、大同年間の創建と言います。一時衰退したようですが、鎌倉時代に再興され、戦国時代には手賀原氏の戦勝祈願寺になったと伝えられています。 本尊は十一面観音で、室町時代を下らない制作のもの(十一面観音は千葉氏一族が信仰する妙見神の本地仏:特に戦国以前はそう言われた)。本殿の蟇股に、千葉一族ゆかりの九曜紋が彫られていました。

興福院にて 蟇股の九曜紋

【旧ハリストス正教会】

明治12年からキリスト教が布教され、拠点となった教会

   明治時代に入り、キリスト教の信仰が自由になると、キリスト教の布教が公然と行われるようになりました。明治初年から活発に活動したのはロシア正教で、まず船橋の法典に教会を設立、 その後印西大森などに布教を行い、手賀でも明治12年(1879)から布教しました。
 手賀では当地の豪農湯浅家、岩立家が入信、明治16年(1883)には岩立藤蔵の所有地に、使用していた民家を改造移築した教会を設立しました。手狭になったために、現在の教会は、別の場所に移っていますが、山下りんの描いたイコンも、新教会にあります。 旧教会にはそのイコンの複製が飾られています。

ハリストス正教会 ハリストス正教会2

【片山地区へ】

片山の台地をのぼり南蔵院へ

 手賀城があった手賀の台地をおりて、西側へ進むと片山地区となり、大きな屋根の旧家などを眺めながら、台地をのぼれば、南蔵院があります。 この寺は、興福院の隠居寺として鎌倉時代に創建されたといいます。境内に、子安観音などの石仏がありました。

カラスウリ 南蔵院の石仏






北ノ作古墳

 北ノ作古墳は、手賀沼を望む台地の上にあって二基あり、うち1号墳:方墳は、3世紀後半のもの。2号墳:前方後方墳の方が新しく、4世紀のもの。  1号墳からは、直刀、剣、鏃、斧、ヤリガンナなど出土、2号墳からは管玉が出土しました。手賀沼沿岸最大級で、最古の古墳です。

 
古墳の説明 1号墳

【片山地区から兵主八幡神社へ】

ヨタイ観音

 ヨタイ観音は、村田重兵衛宅の敷地にあって、扁額は古いものですが比較的新しいお堂が建てられています。三十四体の石仏があるため、ヨタイというのだそうです。

 
観音堂 紅葉

兵主八幡神社

 兵主八幡神社は、兵主神社と八幡社を合祀した神社です。文化14年(1817)、現在の本殿が手賀、片山両村によって造営、両村の鎮守とされました。 祭神は、經津主命、譽田別命です。手賀囃しという行事があり、毎年七月の第一日曜興福院からここまで神輿渡御、山車がひかれます。

 
古墳の説明 1号墳

【原氏墓所から下柳戸へ】

原氏墓所

 原氏墓所は、県道に近い森林のなかにあって、原氏重代の墓や供養塔が祀られています。そのなかには、江戸時代最後の町奉行所与力で、明治になってからキリスト教に入信、日本最初の 教誨師になった原胤昭の墓もあります。原胤昭の子で、早世した萬胤の墓は十字架です。原胤昭の墓の後ろには、彼が保護した刑余者の小さな墓もあります。

 
原氏墓所 十字架

下柳戸の六所神社

 下柳戸も、中世にルーツのある集落で、南北朝時代に上柳戸と分離しました。柳戸砦跡がありますが、六所神社とは100mほどは離れた場所にあります。 六所神社は、創建時期は不明なるも、国府斎場の形式で、柳戸が諸国往来の交流があった場所であったことを示すと言います。下柳戸から今井方面を望む風景は、清々しく、春は桜並木が華やかになります。

 
古墳の説明 1号墳

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