小金城跡と周辺史跡の歴史散歩

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会

 手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会では、「小金城跡と周辺史跡の歴史散歩」を2015年春のイベントとして行いました。以下、その内容を報告します。

 

【今回の見学会】

 手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会主催の「小金城跡と周辺史跡の歴史散歩」は、5月24日(日)に行われました。
 雨の予報があって、心配された天候ももち、少し暑いくらいでした。
 北小金は、根木内城、小金城と高城氏の中世城郭があった地域です。今回めぐったのは、小金城跡中心で、周囲にある高城氏ゆかりの慶林寺や広徳寺もあわせて見学しました。北小金は、本土寺、東漸寺という古刹もあり、近世では水戸街道の小金宿として栄えました(今回は本土寺などにはまわらず)。
 今回、小金の地域史研究家であります、田嶋昌治先生にご同行していただき、いろいろ興味深いお話も聞くことができました。
 JR北小金駅南口に集合し、駅を通って北側に出て、まず鹿島神社へ。 鹿島神社は駅前から北へ本土寺方面へのびる道の西側路地を少し入ったところにあります。 なお、鹿島神社の裏に少し地面が盛り上がったところがあります。 このあたりを家老屋敷というそうですが、その土塁跡か、古墳の名残かもしれないとのことです。

<案内して頂いた田嶋先生>
田嶋先生



【慶林寺へ】

桂林尼の墓所など

 北小金駅の北側、鹿島神社を見た後、慶林寺へ。慶林寺はJRの線路脇の道路沿いにあります。
 この慶林寺は高城胤吉夫人だった桂林尼の菩提を弔うために、子の高城胤辰が建てたという寺でしたが、後に徳川家康から朱印高十石を貰い、寺の名を 桂林寺から慶林寺に改めたといいます。江戸時代の子孫が建てた桂林尼の墓所や、小金に屋敷を構え野馬奉行をした綿貫氏数代の墓所があります。

慶林寺 桂林尼の墓所

【小金城跡】

高城氏ゆかりの巨大中世城郭

  小金城跡は高城氏の居城であり、小金宿と一続きの台地の北側にあります。東西800m、南北600mほどの大きな城で、小金城を小金大谷口城とも言いますが、大谷口の地名は鎌倉時代からあったそうです。現在、線路沿いの坂道に「大谷口」の石碑があります。また、その近くには「本城」と呼ばれる主郭部分があったのですが、現在は住宅地になっています。  それ以外の部分も殆どが宅地化されています。現在、病院の近くの緑地で大きな石碑のある達磨口は、遺構が残っております。また、現在歴史公園になっている金杉口の部分にも、遺構が残っています。 今回、達磨口、大谷口、本城、馬屋敷、金杉口と小金城跡のほぼ全域を回りました。

達磨口 金杉口付近の石碑

小金城跡の歴史と遺構

 今までよく、根木内城が手狭になったため、高城氏が新たに小金に城を築いて移り住んだと言われてきましたが、最近の研究では根木内城の機能していた頃に、既に小金城は存在しており、根木内城も小金城も高城氏以前に高城氏の主筋になる原氏が拠っていたのではないか、と言われています。鎌倉大草紙くらいしか資料がありませんが、原氏の拠った前期小金城があったようです。また小金城のある「金(こがね)領」は東葛の政治的中心でした。
 高城氏は後北条氏に従って勢力を伸ばしましたが、天正18年(1590年)の小田原征伐の際、高城氏は後北条氏に従い、小金城は豊臣氏方の浅野長政らに攻められ開城しました。その後、徳川家康の子、武田信吉が居城にしましたが、信吉の佐倉城への移動に伴い、文禄2年(1593年)に廃城となっています。なお、達磨口は発掘されていませんが、金杉口以前に保存され、金杉口も通常の公園と同じ扱いではありますが、幸いにも市によって保存されたため、金杉口の珍しい障子堀や畝堀を今間近にみることができます。

金杉口で堀をみる 金杉口の郭

金杉口から広徳寺へ

 金杉口を出て北へ歩き、広徳寺へ。ここは高城氏の菩提寺である曹洞宗のお寺で、大路一遵大和尚が開山、高城下野守胤吉が開基、境内に季節の花が咲き静かな佇まいです。 高城氏墓所は、境内の高台にあります。 その高台からは小金城跡を一望できます。 広徳寺の場所にも中金杉城という城があったという説がありますが、不明です。 戦国期にはすでにこの場所に広徳寺はありましたので、もっと古い時代のことかもしれません。 さらに本土寺参道脇、秋山夫人の墓の旧在地まで行き、解散しました。丁寧に解説してくださった田嶋先生には感謝いたします。 写真は、広徳寺の高城氏墓所と金杉口での集合写真。

 
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