2003年度古代東海道を検証する

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会

馬橋駅からマイクロバスで出発


下総総社(府中六所之宮跡)
 国府台は大化改新(645年)以後、下総国府の置かれた所です。ここには国守をはじめ役人たちが政務をとる役所(国ガ)が設けられ、地方政治の中心地となりました。
 当時、国守ノ任務のひとつに毎年国内の神社を巡拝することが義務付けられていました。しかし、このことは大変な行事であったため、やがて国府またはその付近に一国を代表する総社が設けられ、国守の国内巡拝は略されていきました。総社は国によって六所之宮ともいいました。関東では下総・武蔵・相模・常陸の国が六所神社とよび、下総では後世「府中六所之宮」と称しました。ここには東西ほぼ130メートル、南北80メートルにわたる森が作られていた所から、この地を「六所の森」または「四角の森」とも呼びました。明治18年、陸軍教導団が国府台に移転すると、この周辺が錬兵場となったため、六所之宮は19年に須和田2丁目の現在地に遷されました。
 総社がいつごろから設けられたのかは明確ではありませんが、本市が昭和55年総合グラウンド改修のため発掘調査を実施した結果、古墳時代後期から平安時代初期にかけての竪穴式住居跡65軒等が検出されました。また、61年の調査では六所之宮跡周辺で奈良時代から平安時代初期の竪穴式住居跡11軒が検出されたことなどから考えて、平安時代初期以降であると..(不明)..ます。また、.....(不明)


下総国分尼寺跡
 国分尼寺は、741(天平13)年の聖武天皇の命令で、国分僧寺とともに各国に建てられ、10人の尼僧が置かれた。その建立には、仏教の力で国をまもる願いが込められていたが、国分尼寺の正式名称は「法華滅罪之寺」というので、人々がおかした罪を消滅させる願いが強調されていた。
 下総国分尼寺は、1932(昭和7)年の発掘調査で、この場所にある金堂と講堂の基壇が確認され、「尼寺」と書かれた墨書土器が出土したことから、位置を確定することができた。その後、発掘調査は1967(昭和42)年以降何度もおこなわれ、寺の範囲を区画する溝が北・東・南で確認されている。北溝の全長は約340m、東溝は303mになることがわかった。この溝で区画された寺域(寺院地)は不整な方形を呈し、寺院地の中には、金堂や講堂といった宗教的な施設のほかに、寺の運営をおこなった施設、寺の営繕にかかわった施設、倉、寺の下働きをした人々が住んだ施設、仏に供える花などを栽培した畑が含まれていた。尼寺は僧寺の西側に位置するので、「西寺」と書かれた墨書土器も出土している。
 これらの施設のうち、宗教的な施設は溝や塀で区画され、その中に金堂(東西25.5m・南北22.4m)と講堂(東西27m・南北19m)が南北に建てられた(尼寺には塔が建てられなかった)。その区画の南辺には南門と中門が確認され、中門の構造は掘立柱の四脚門であった。中門と金堂周辺は回廊で区画される例が多いので、このような区画のあり方は、武蔵国分僧寺と尼寺などのみられるものの例は少ない。講堂北側の区画には尼坊が推定されている。
2002(平成14)年3月 市川市教育委員会

一本松の由来
 これより北東約五〇〇メートルの位置に、南西より北東に通ずる道路と、北西より南東へ走る道路が四つ辻をなしていた。前者はかつての松戸町と八柱村の町村境であって、東側へは国分新田から国府台に通じ、北側へは陣が前よりお成り道へと通じていた。細道ではあったが、いにしえの下総国府より常陸国府への官道ではなかったかともいわれる由緒ある道である。後者は大橋の集落中心部より松戸へ通ずる重要な道路であった。こうしたことから、この四つ辻には通行人の目標として榎・松の大樹がそびえ、また大橋村の玄関口でもあったことから庚申塔・霊場拝札供養塔が建立されていた。その後、昭和四十五年に施行した二十世紀が丘土地区画整理事業によって在来の一本松を活かし、現在地に移設復元されたものである。
昭和四十六年 初秋 松戸市
古代官道とおぼしき道−柏
官道の発掘に関する説明−我孫子
石塔群−我孫子