松ヶ崎城の遺構

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会

 松ヶ崎城に遺された高い土手、深い堀、左右がずれている出入り口、何のためにこのように造られたのでしょうか?

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石田守一氏の「松ヶ崎城跡概念図」(『千葉県所在中近世城跡詳細分布調査報告書?』千葉県教育委員会)をもとに、現地の状況を見て作成

【構造】

 北・東・南の3方が崖で、西側だけ台地続きです。最も防備を固めなくてはならないのは西側で、松ヶ崎城もそのように造られています。
 西側・北側には堀を備え、柵を設けていた可能性のある土塁、南側には崖を補強する土塁が築かれました。堀は水のない空堀(からぼり)で、西側・北側にあります。
 城の中心部分は、「1辺約50メートルの方形の本曲輪」と「南側のがけに沿った曲輪」。現在は2つに分かれていますが、当時は1つだった可能性もあります。
 平成14・15年度の発掘確認調査でこれらの曲輪内の広い範囲が調べられましたが、建物跡はみつからず、城主がここに館を建てて住んでいた可能性は小さくなりました。

【各部】

腰曲輪(こしぐるわ)

 台地の中腹を削って造った平らな場所。城を守る兵が見張りをしたり、がけ下の敵を攻撃する場所として設けられた腰曲輪は、城の中心部分を守るよういくつも設けられています。
 この腰曲輪の一部に、江戸時代から明治にかけて不動尊がまつられ、「三郡境の不動様」として賑わいました。

物見台(ものみだい)・・古墳跡

 城ができる前から、3基の円墳(古墳)があり、一番大きな円墳は、周囲を見張る「物見台」として、城の施設に加えられました。松ヶ崎城を造った時期に古墳の周囲を埋めもどし、新たに掘られた形跡から、そのことが検証されました。

3つの虎口(こぐち)と土橋(どばし)

 虎口とは出入り口のこと。松ヶ崎城には、西・南側に2つの虎口が現存し、特に防備を固めなくてはならない西側は、「食い違い(くいちがい)虎口」です。これは虎口をはさむ左右の土塁が一直線ではなく、前後にずれている形で、敵がまっすぐに城内へ入って来ないための構造です。
 また、発掘調査で北東に門の跡がみつかり、城のメインの虎口が西側ではなく、北東側だったことがわかりました。地形や城の形から、台地北側に津(船着場)があった可能性があり、その門は船着場方面から上がってくる出入り口だったかもしれません。
 また、西側の虎口前には土橋。土でできた橋で、大勢がいっせいに攻めてこられないように、人ひとりが通れる程度の幅でした。

土塁と堀

 堀から土塁を駆け上がってくる敵を、上から矢や石つぶてで攻撃します。堀には水はありません。
 また、土塁斜面に柵を造ったと思われる穴が、調査(2002年)で見つかりました。柵が確実にあったどうかは今後の調査を待ちますが、あったとすれば敵の侵攻を食い止める障害物として設けられたものです。

松ヶ崎城跡の模型
(柏市教育委員会の原図をもとに当会で作成)

【コンピュータグラフィックスによる松ヶ崎城遺構の表現】

柏市教育委員会による測量図および地形図より作成

松ヶ崎城遺構の平面図

(図をクリックすると別画面に大きく表示されます。)

松ヶ崎城遺構の三次元コンピュータグラフィックス

手賀沼方面から見た松ヶ崎城。手前左側の中段に不動尊のあった腰曲輪見える。

(図をクリックすると別画面に大きく表示されます。)

台地基部側より見る。食い違い虎口、堀を伴った土塁、一番上に古墳を利用した物見台が見える。

(図をクリックすると別画面に大きく表示されます。)

ペイントソフト:Pixia、3D地形画像ソフト:GRを使用して作成。
高さ方向は約2倍に強調してあります。

撮影・作成:山田 宏