松ヶ崎城跡見学会

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会

 手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会では、市の借り上げによるオープン後第1回目の見学会を春のイベントとして行いました。以下、その内容を報告します。

【今回の見学会】


 手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会主催の松ヶ崎城跡見学会は、6月14日(日) 午前10時から正午まで行われました。
 梅雨入りしていましたが、当日見学会の時には曇り空ではありましたが、雨は降りませんでした。
今回、柏市との共催で、柏市学芸員の吉田さんにメインの城跡の説明をしていただき、吉田さんの上司の井上さんには過去の発掘結果について、解説していただきました。
さらに、植物と不動尊跡については、当会の川上会長代行より解説してもらいました。当日松ヶ崎城跡下の鉄塔前に集合し、台地上の城跡をまわり、不動尊があった腰郭なども見て回りました。 

さあ出発 集合









【松ヶ崎城と周辺】

松ヶ崎城跡と手賀沼周辺の水陸交通や集落との関連

 松ヶ崎城がある台地からは、縄文早期の土器が出土し、古墳が3基あって、平安時代の住居跡(建物跡)も発掘で検出されるなど、古代から人が生活していた場所でした。
 松ヶ崎城は、戦国時代、まだ大河ドラマに出てくる上杉謙信などが活躍する前に築城された城です。しかし、どのような勢力が築城したかなど、文献もなく不明です。15世紀後半から16世紀初めの城であることは、土塁の構造からも分かります。  周辺には手賀沼が迫り、対岸の現在のJR北柏駅付近にあった中世の集落跡である中馬場遺跡、中世の館跡である法華坊遺跡、また戦国時代でやや時代が下る根戸城跡との関連が想定できますが、詳しいことは分かっていません。
 台地は東側が張り出した岬状になっており、松ヶ崎城はその東に張り出した舌状台地の先端部分の地形を生かした城です。近くには手賀沼の水運ともに、我孫子方面へ旧水戸街道も通っていて、当地が水陸交通の要衝であったことを示しています。

地層の説明 古墳前で説明

松ヶ崎城跡の構造

 松ヶ崎城は50m四方程度の主郭の周りに、腰郭がついた形になっていて、主郭はほぼ方形に空堀と土塁がめぐっていますが、主郭のなかにも低い土塁があり、二つに仕切られていました。また外側の郭は、台地縁に沿って土塁がめぐっていました。
 松ヶ崎城の出入り口、城郭用語で虎口というものは、西、南、東の3ヵ所あり、西側虎口は食い違い虎口といって、両側の土塁が直線状に並んでいるのではなく、少しずれているために、虎口から侵入する敵を横から攻撃しやすくなっています。 土塁は、堀を掘った時の土などで固めたものですが、戦国後期のような頑丈な作りではありません。堀も、北側の堀は底がV字状になっていて、古いタイプのものです。

西側郭 西側虎口
門跡 南側

【実際に城跡の土塁や物見台に上ってみる】


   今回、土塁や物見台に実際にのぼっていただき、その高さを体感していただきました。土塁は高いところで、高さが4mほどあり、堀は現状1mくらいの深さですが、当時はさらに2mほど深かったと考えられますので、堀底と土塁上の高低差は最大7mはあった模様です。
 物見台は、古墳を転用したもので、さらに築城時に盛り土をかぶせてあります。物見台からみれば、眼下に障害物のない当時は、台地下の手賀沼一帯が見渡せたと思われます。

土塁 物見台

【南側の腰郭へ】

西側虎口から南側へ

 南側の腰郭にも回りました。松ヶ崎城跡の特徴として、腰郭がほぼ完全に残っていることがあげられます。西側虎口の手前から、あるいは南側虎口を出て、南をぐるっと取り巻く通路に沿って、いくつか腰郭があり、小さなものも残っています。 これだけ腰郭が残っていることは珍しいといいます。
 特に、不動尊のあった腰郭は、少し広くなっており、そのスペースを利用して不動尊がまつられたものと思われます。 なお、残念ながら不動尊は最近の火事で焼失し、絵馬もなくなりました。
不動尊の近くには湧水があり、行者が滝に打たれる絵がかつて残っていました。

南側通路 不動尊跡

不動尊跡

 南側腰郭にあった不動尊は、下総国の「印旛郡」「葛飾郡」「相馬郡」という3つの郡の境にあったために「三郡境の不動尊」と呼ばれ、江戸時代から近年にかけて当地が信仰の場であった象徴でもあります。
 不動尊には絵馬も種々残されていましたが、松ヶ崎不動尊風景図、同参拝図や藤原秀郷・平将門合戦図、文覚上人荒行図等十数点ありました。残念ながら、前述の火事で焼失し、写真のみ残りました。

(絵馬の写真をクリックすると、拡大画像を表示します)

 
絵馬のコピーをみせる 不動尊風景図; クリックすると拡大画像を表示

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